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■ 1月4日 ■
 世界は、まるで地獄のようだと思った。
「……美雪、無理して起きるなよ……寝てろ」
 うっすらと目を開けて。
 半身を持ち上げようとする美雪を制止し、拓也は椅子の背もたれに寄りかかったまま呟いた。古びたベッドに寝かせた少女は、腹部を幾重にも包帯で巻かれ、患部にはガーゼが挟んである。寝返りを打とうとしたのか、僅かに顔をしかめたのは、縫った皮膚が突っ張るからだろう。あるいは、左肘の内側に射し込まれた点滴針が痛むのか。何にせよ、予断を許さない状況であることに変わりはない。未だ言葉を発するのも辛そうな美雪に、いいから寝てろ──と再度告げて、拓也は自分自身もまた両眼を固く閉ざした。

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テーマ : 自作恋愛連載小説
ジャンル : 小説・文学

■ 1月3日 ■
 天使の頭を、巨大な鉄の棍棒で叩き潰す。
 歯車やネジ、有刺鉄線、釘が無数に生えた質量の塊は頭部を丸ごと消し飛ばし、雪の下に埋もれた道路をも陥没させた。僅かな震動が走り、足下がぐらつく。鉄を振り下ろしたせいなのか、それとも自分自身の愚かさに目眩がしているのか、拓也にはもう区別ができなくなっていた。
 広がる血。
 倒れ込む体。
 白い絨毯のように積もった雪の上に、黒く広がる髪。
 ──ほんの一瞬じゃないかよ。
 ほんの一瞬、自分が先行しただけだ。距離にして数メートルも離れはしなかった。
 その一瞬で、拓也が守りたかった世界が終わろうとしている。

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■ 1月2日 ■
「──ビートルズって知ってるか?」
 突然声をかけられたことよりも、問いの内容そのものに。
 美雪は何度か目を瞬かせ、寝袋の中でもぞもぞと身動ぎした。
 歩き続けた果て、登山用具を売る店に侵入し、勝手に防寒具を幾つか借り受けた。寝袋と毛布を引っ張り出し、店の隅に積んであった商品を除けてスペースを作って、そこで一晩を過ごすことにした──壊した入り口は拓也の鉄で塞いだが、いつ破られてもおかしくない。当然夜が訪れても満足に眠れず、ただ緩慢な睡魔と戯れることしかできなかった。
 そんなさなかに。
 隣で寝袋に包まり目を閉じていたはずの少年が、不意に口を開いたのだ。
 ──ビートルズ?
 名前だけなら、かろうじて知っている。実際に曲を聴いたことはほとんどない。拓也が好んで聞いていたラジオで、何度か聞いたことがあるぐらいだった。そのときはほとんど聞き流していて、正直古臭いなと思った程度だったが。

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■ 1月1日 ■
 年が明けたからといって、何が変わるわけでもない。
 二人の歩みが終わることもなく、世界の終わりが突然停止するわけでもない──相変わらず雪は降り続け、軌跡によって削られる箇所も随分と増えていた。吹雪の中を歩き回るだけでも体力を使うが、間違って終わりの欠片に衝突しないよう気を配るのも疲弊を誘う。手を繋ぎ、拓也が先導する形で歩く──細長く伸ばした鋼線で歩ける道を探る作業は、ひどく単調ではあったが、だからこそこれまで二人を生き長らえさせてきた。
 死体とも、天使とも、他の奇病に冒された患者達と出会うこともない。
 当然、自分達以外の生存者と出会うこともなかった。
 世界中でただ二人だけになったかのような錯覚を味わいながら、幾筋も白く切り取られた街並みを遠く眺める。もちろん拓也と美雪しか生存者がいないわけではない。年が明けようとするまさにその瞬間、除夜の鐘が鳴り響いたのを聞いている。危険も顧みず、世界最後の祈りを高らかと空に打ち上げた者達がいるのを知っている──誰もが皆、懸命に生きているのだ。
 最後の瞬間に向かって。
 最後の一瞬まで生きようと足掻く。
 それは決して虚しいことではない。人間として生まれてしまった以上、何をどうしたところで死ぬのは怖いのだろう。少なくとも拓也は、あと一週間で避けられない死が訪れるという事実に怯えきっていた。磨り減った感情が表に出てこないだけで、美雪がいなかったら人目も憚らず泣き喚いていたに違いないのだ。
 ──だから。
 怖いから、生きる。
 怖いから、歩き続ける。
 動いている限り、死を避けられそうな気がするから。
 歩いている限り、どこかに辿り着けそうな気がするから。
 だから拓也は、歩みを止めない。
 もうどこにも辿り着けないのだと、心のどこかで気付いてしまったとしていても。

 世界が滅びるその日まで、あと七日。

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■ 12月31日 ■
 世界が狂っていく。
 言葉はない。
 真実もない──当然のように希望もない。
 明日すら見当たらなかった。
 群がる死体の群れに、押し潰されたラーメン屋。
 手狭な店内一杯に死者の群れが押し寄せ、何かを咀嚼する音が聞こえる。
 店から出かけた、ほんの三十分程度の間の出来事だった。
「……全部、嘘だったらよかったのにね」
 どこか遠くに物を放り投げるような美雪の呟きにすら、答えることができない。
 何だか馬鹿みたいだ──と思った。
 全てが嘘臭い。映画の脚本通りに何もかもが進行しているかのような錯覚。
「全部嘘だったらよかったのにな……全部、映画だったらな」
 こんな悲惨なバッドエンドは許されない。
 観客が感動にむせび泣き、拍手喝采の鳴り止まない、そんなエンディングを撮り直さなければいけないだろう。カメラを回し、とっておきの役者を連れてきて、熟練したスタッフを配置して。リテイクしなければいけないだろう。
 けれど、どこまで願っても現実は現実のままで食い止められて。
「……次はどこに行こう」
「次は、俺達が安心して死ねる場所に行くんだよ」
 拓也と。
 美雪は。
 二人で、そこから逃げ出した。
 一度だって振り返ることなく。
 店主の顔も、常連客だった中年男性の顔も、思い出すこともなく。

 ──もうすぐ、一年が終わる。

 世界が滅びるその日まで、あと八日。

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プロフィール

神楽坂司

Author:神楽坂司
世界が終わる。
無慈悲に優しく、無造作に哀しく。
無意味に虚しく、無感動に冷たく。
世界は終わる。
終わりの中で初めて紡がれていく、優しくて哀しい人々の絆。避けられない終局を前にしたとき、彼らの選択はこの世界に何を残していけるのだろうか──?

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